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あきたこまちのお話【おいしさには理由がある!】
あきたこまちは、「コシヒカリを凌ぐ美味しいお米を」という願いから生まれました。

 稲の新品種の育成はとめどもない選抜の繰り返しである。草型、出穂期、稲先色、その他の形質から交配目的に見合ったもののみを選抜し他は除去する。こうした選抜を繰り返しながら世代をを促進させF7程度で新品種として固定する。


稲の新品種育成工程

 私ども、稲作農業を営む者にとって、この「秋田こまち」はまさしく 救世主であり、この米があるからこそ、今日まで稲作農業で生き延びてこれた、といっても過言でありません。更に研究努力を重ね、お客様に喜ばれる、安全で美味しい「秋田こまち」米をこれからも作り続けて行きたいと考えております。それがこの品種の改良に長年、日夜努力してこられた秋田農試及び関係各位の方々に対する恩返しとも考えております。

昭和31年

  • 「コシヒカリ」が誕生。 開発したのは福井農業試験場で越南17号を系統名に誕生しました。

昭和38年

  • この年をピークに年々米の消費量が減少し始め、日本人の食生活の変化が米離れを引き起こした。
  • この頃消費者に圧倒的に好まれている米は「コシヒカリ」、「ササニシキ」であった。
  • ササニシキは一部の地域で作られているが、「コシヒカリ」は晩成種だから残念ながら秋田では登塾不十分で育たない品種です。

昭和42年

  • この頃より 米市場が大きな体質転換を迫られ始めたのです。すなわち生産が需要を上まわる消費者の「米離れ現象」により量から質への転換が求められたのす。

昭和44年

  • そんな世情を反映して政府は「銘柄米制度」を発足させたのですが、それが新品種開発の決定的な拍車となった。秋田農試の新品種開発もそうした時代のニーズに呼応したものであった。ちなみに同年指定された産地銘柄米は53種であった。コシヒカリは今日まで他の追随を許さない力量を持った米である。だから今日までコシヒカリを交配親とした新品種の育成が様々に試みられているのですが、親の力量を超える子供が未だに生まれていないのが実情でありました。
  • 秋田農試でも、新品種の交配親はコシヒカリで、それをしのぐ子供を作ろうということになった。

昭和50年

  • (1975年)福井農使がコシヒカリを母に奥羽292号との交配試みたのですが、その時の交配:頴花数は55・・・・結実数はわずか18粒だったのです。

昭和51年

  • 福井農試はその18粒のF1を栽稙し、なかから7株を選抜したという。(秋田農試が譲り受けたのはその7株のうちの一株(F2)であった。)
  • 秋田から時の稲作部長の沢本氏が福井農試を訪れたのは真冬の2月だった。コシヒカリの交配種の中から秋田の地に適すると思われる五種類のF2をいただいて帰ったと言う。すなわち、奥羽二九二号、二九九号、西南五八号フ系一〇八号等々を父とした交配種であった。しかしその時は、まさか原石のような一粒が眠って居ようとは知る由もなかった。

昭和52年

  • 同年2月 農協中央会が新品種育成のための人工交配室を作るという名目で千七百万円を県に寄付することになった。その中央会の意向が呼び水となり、県は更に一億五千万円の予算を新たに計上し、秋田独自の天上的にうまい米の品種を作ろうというコンセプトが正式に認められ、いよいよスタートすることになった。
  • 秋田農業試験場は明治二十四年に創設され、戦前まで数多くの秀れた品種を育成してきたが、第二次大戦を契機に新品種の育成活動がストップしたままだった。
  • 同年10月秋田農業試験場に待望の「水稲育種世代促進室」が完成しました。
  • 秋田農試はその譲り受けたF2から384株を栽稙し、その中から81株(F3)を選抜・・・・ 。

昭和53年

  • 81系統から15系統(F4)を選抜し圃場栽培へと歩をすすめたのである。もちろん譲渡されたもの以外にも多くの交配種が栽稙選抜された事は言うまでもない。

昭和55年

  • (1980年)さらに試行錯誤のなかから秋田農試が有望な二系統を選抜したのですが、奇しくもそれは福井農試より譲渡された一粒より発したものでありました。
    父親 奥羽292号(食味はまずまずだが、イモチ病、冷害に強く、安定他収)
    母親 コシヒカリ (イモチ病に弱く稈が細長いので倒伏しやすいが食味はバツグン)
    秋田農試はその二品種の誕生した年をもじってそれぞれに番号を付した。
    子供 生5504と5505の二品種

昭和57年

  • 同年1月秋田農試が待望の新品種を決定した。圃場栽培の結果倒伏に強いということで「5505」に決定し「秋田31号」と命名された。更に向こう二年間県内各地の農家に現地栽培をしてもらい、その成果を確かめようということになった。

昭和59年

  • 二年間の現地栽培で「秋田31号」の優秀性を確認した農試と経済連は、ただちに新品種の普及と販売作戦に乗り出した。その第一歩がネーミングであった。こめどころ秋田のおいしい米というイメージを表現したネーミングで、覚えやすくてインパクトがあることが条件であった。いろいろな名前が候補にあがりましたが、同じく「秋田31号」もわが秋田が産んだ超美人米で、日本の美人の代名詞といわれている、小野小町にちなんで 「秋田こまち」として候補にあがりました。その他色々の名前がありましたが、ひとまず候補を五つにしぼって知事に提出し、県知事がその中の一つ「秋田こまち」を新品種名に選定したのは、同年9月5日だった。その二日後の和59年9月7日「秋田こまち」は県農作物品種対策協議会で満場一致をもって県の奨励品種に認定されました。
  • 当時東京日本橋に財団法人「日本穀物検定協会」という農水省の外郭団体があった。このユニークな業務の一つに米の「食味試験」がある。毎年各地方で生産される米を試食しその “食味”の良・不良を所定のルールに従って評価する試験だが、これは協会が選抜訓練した20名のエキスパートパネラーによって行われている。食味試験は専用の試験皿を用い基準米と食べ比べる相対法によっておこなわれる。基準米は滋賀県産の「日本晴」が用いられる。評価は外観・香り・粘り・硬さ・総合の六項目で、つまり基準米を0としそれより良か不良かを採点し、パネラー全員の平均値をとるのである。秋田こまちの外観は小粒だが輝きがあり、艶も香りも申し分がなく、おいしく、粘りも今までになかったほどの粘りがあり、喉ごしも滑らかでほのかな甘みがあり、全ての項目で基準米をしのいでいるとの評価をうけ、集計の結果0.944という驚くべき数値がでたのです。この数値の意味は10人中9人を上回る人が基準米よりも良いと答えた指数で、味覚に個人差がある為にパーフェクト数値である10は現実としては出てこない。宮城県のササニシキが0.5〜0.6であり、新潟のコシヒカリでさえ0.7〜0.8という数値しかとっていなかったので、それを考えたら0.944がどれほどの数値かおわかりいただけると思います。結果は新聞にも大々的に取り上げられまして、公正な第三者機関からうまい米というお墨付きをもらったことになります。秋田こまちがコシヒカリを超えたことにになり、長年の夢であった親よりも勝る子供が秋田農試より難産の末誕生した瞬間でした。

昭和63年

  • 昭和44年に発足させた「銘柄米制度」の産地銘柄米は53種であったものが、この年には130種にもふくれあがることになりました。
小野小町メモ

平安初期の代表的な歌人であり、生没年は不明、小野の父親とされる小野良寅という人が京の都より使わされ、出羽の国、福富の荘の郡司をしていたといわれ、小町は世界三代美女の一人に数えられ、日本美人の代名詞ともされている。小野小町が、いまを去る千二百有余年前生誕したと言い伝えられている秋田の県南部に位置する、雄勝町小野の里、その田園の一隅には「小町堂」と呼ばれる小さな社殿があります。その小町をしのぶ「小町まつりが」毎年六月の第二日曜日に町をあげて行われる。小町とその母が愛したというシャクヤクの花が香る頃で、当日は若衆が荘厳な小町太鼓を打ち鳴らすと、その音に誘われるかのように市女笠姿の七人の小町娘が登場する。小町娘は社殿に額ずき小野小町の詠んだ七首の和歌を朗詠奉納して、祭りは佳境に入ります。「花の色はうつりにけりないたずらにわが身世にふるながめせしまに」

秋田こまち
昭和59年にコシヒカリと奥羽292号を掛け合わせて誕生したのが「秋田こまち」です。この秋田こまちの名前の由来は、秋田県小野の里に生まれ、美人の誉れ高い平安時代の歌人、小野小町にちなみ、おいしいお米として末永く愛されるようにとの願いを込めて命名されました。コシヒカリの血を受け継いだ味の良さと手頃な価格で今や秋田こまちは秋田県ばかりか日本を代表するお米の銘柄になりました。 秋田こまちの味の特徴は一言で言うとそのもちもちとした粘り気のある食感です。水分が多めで噛むと柔らかく、味はもちろんのこと炊飯器を開けたときの香りが素晴らしいと評判です。 また秋田こまちは、冷めても味が落ちにくく、独特の粘りがありお弁当やおにぎりなどにも適していますので主婦の皆様には重宝されております。 大潟村のイシカワファームでは、大潟村の秋田こまちなどもご紹介しております。ネットでのお米の販売もいたしております。是非ご利用ください。